こんにちは宮海です🌊

学校事務補助員として就職して5ヶ月が経過した2020年2月頃から、

仕事でもミスが目立つようになりパフォーマンスの低下が顕著になりました。

そして次第に私は周囲から

「仕事が出来ない人」

のレッテルを貼られるようになり、上手く挽回しようと試みますが同時に心がどんどん壊れていくことを感じました。

事務室の室長からも

「あのミスのせいで信用が無くなってきたから、もうあの仕事はやらせないで。」

と支援員に伝えていたことも知りました。当時は自分の頑張りが足りないと考えていた私は、

「ちゃんとやらなきゃ……ちゃんと……」

と段々と自分を追い込むようになりました。

そして3月に入ったある日の朝起きると一切の感情が無くなっていたのを感じました。

頭も上手く回らないし、体がもの凄く重い。よって再び鬱病を発症してしまったことが分かりました。

そうなるともう仕事どころではありませんでした。

それでも職場へ行かないといけないので、頑張って足を動かして職場へ向かいました。

当然仕事のパフォーマンスも一気に低下し、支援員からも元気が無い様子を聞かれて鬱病を発症した旨を伝えると

「ふーん。あっそう。」

と言われました。福祉の支援員のくせに鬱病への理解が皆無でした。

またその頃は学校の卒業式入試が控えていて、その会場の準備の仕事を任されていました🎓

その仕事は学校の先生から事務員の人達など学校関係者総出で行い、体育館で全員集まって作業をしました。

生徒や保護者が座るパイプ椅子をたくさん並べたり、

体育館のステージ上に卒業式の看板を掲げたりと皆で手分けして手を動かして準備をしました。

しかし当時の私は鬱病の症状の影響で頭が回らず

周りの状況を見て適正な行動が取れず途中ぼーっと突っ立っているような状態が続きました。

結局私は大した仕事が出来ないままその日の勤務が終了しました。

その日の最後に支援員と面談することになり、支援員からは

「今日は校長先生教頭先生など会社でいう社長クラスの人達まで体を動かして作業していたのに、

あなたはぼーっと突っ立ってて悪目立ちしていたね。」

と咎められました。

仕事しなきゃいけなかったことは分かっています。でも鬱病で頭が上手く回らなかった旨を伝えると

「ふーん。そんなの一般企業じゃただの言い訳にしか聞こえないわよ。」

と全然こちらの事情を理解する気がありませんでした。その後またずけずけ説教をされて帰宅しました。

帰宅して家でもずっと暗い表情を浮かべている私を見た母もこちらの事情を把握すること無く

「最近暗いけど、明るくなれないの??」

と平気で聞いてきました。

母は昔から共感能力が低くく、

私が元気が無い様子を見るとすぐ明るく振る舞うよう要求してくる悪い習性がありました。

こっちだって好き好んで暗くなっている訳ではありません。

暗くなってしまう理由や事情があるから、元気が無いのです。

それなのに私の気持ちを理解しようとしない無神経な発言に腹が立った私は

「うるさい!!あんたが俺みたいな障害児を産んだのが悪いんだろうが!!」

と怒りを顕にしました。すると母も言い返しお互いに言い合いになりました。

母 「何?じゃあ、私があなたを産まなきゃ良かったってことなの?」

私 「ああ、そうだよ!」

母 「親に向かってそんなことを言うんだあ、なんだか悲し過ぎて涙も出ない。」

そして私は物を投げるようになるまでの争いに発展しました。

職場でも家庭でも誰も私を理解してくれる人がいない、居場所が無い、

おまけに当時の私は上京して3年目になりましたが未だにプライベートで友達や恋人などが全くいませんでした。

加えて当時は24歳になっても正社員として働いたことが無く、フリーターみたいな生活を送る日々。

そもそも生まれながらに障害という大きなハンデを持って生まれたため、

就労能力も低く出来ないことだからけのダメな人間。

まさにどん底でした。もう生きる気力が無くなりました。

生きることに疲れました。生きることが限界でした。とにかく生きることに息苦しさを感じました。

毎晩布団に入りながらこのまま入眠してそのまま永眠することを願いながら、眠りにつきました。

それでも明日は知らん顔でやってきて、当たり前のように朝になると勝手に目が覚めるのでした。

それではまた👋